「はぁ」
日がすっかり落ち、あたりは暗く人通りもほとんどない道を久慈川りせは一人、大きな荷物を抱えて家路を急いでいた。
突然の休職を宣言したその足で逃げるように東京を去ってきた彼女は、意識して地味な格好をしているものの、見る人が見ればあの久慈川りせだと一目でわかってしまうだろう。
この暗闇でさすがにサングラスは外したものの、帽子を深くかぶり、無駄とわかりつつも後を付いて来ている野次馬がいないか気にしながら、ようやくここまでたどり着いた。
この神社を超えれば懐かしのおばあちゃん家・・・とホッとしかけたところで、向かいから女子たちの甲高い話し声が聞こえてきた。八高生かもしれない。
女子校生特有の高い笑い声が近づいてくるのを確信すると、りせは反射的にすぐ傍の神社の中へ隠れた。灯りが少なく木も多いおかげで、彼女たちを難なくやり過ごしたりせが一息ついて外に出ようとすると、
「きゃっ・・・!?」
ふいに足元を通り過ぎる何かが見えて、小さく悲鳴をあげた。
慌てて口元を押さえ、その何かが向かった先に目をやると、境内のさらに奥まったところに、ぽつんと人影が見える。そこへ向かった小さな何かは、猫だった。
一瞬、身構える。
こんな夜更けにこんな灯りの少ない場所で、こんな人気のない場所に知らない人と二人きり。
万が一、不審者だったら冗談ではすまない。すぐさま道に引き返そうと思ったそのとき、
「動かないでください」
「っ!」
「猫は苦手ではないですか?」
「・・・はぁ?」
遅かった!という恐怖にかぶさるように続けられた向こうからのあまりに呑気な質問に気をとられて逃げ損なっていると、またしても足元に気配を感じた。思わず視線を下に落とすと
「・・・な、な!?」
「みんな、お待たせ」
「なっ、なにこの数!ありえないんだけど!」
「今日はたしかに多いですね。あなたがいるからかも」
「はぁ!?」
そこには大小問わず、一目で数えるには難しいほどの猫の大群が、その人影を囲むように集まっていた。
よくよく見てみるとその人影は、自分と同じくらいの背丈の女子だ。しかも八高生の制服を着ている。
「みんな、あなたに興味があるみたいです。ほら」
手に持っているニボシと思われるもので、足元を指差されて見下ろすと、なんの警戒心もなくりせの足元をふんふんと嗅ぐ猫が数匹見え、びっくりして思わず身をすくめる。
「猫は嫌いですか?」
「き、きらいじゃないけど・・・」
「触ってみたらどうですか?」
「ひ、ひっかかない・・・?」
「それはわかりません」
「ちょっと!?」
「お互いの気分次第ではないですか」
その人影がしゃがみこんで手招きすると、傍にいた猫が甘えるように頭を擦り付けている。その様子を見てりせも同じように屈み、やや怯えながら手を差し出すと
「よ、よってきた・・・!」
「よかったですね」
「べ!別に、嬉しくなんかないんだからっ」
「そうですか?私はこうしてると柔らかくて暖かくて、なんだか落ち着きます」
「それは・・・そうね」
二人、うら若い女子がしゃがんでこれだけの数の猫に囲まれている様子は実に異様だ。そんなことは承知しつつも、この女子にすっかりペースを握られてしまったりせは今更どこに注意を払ったらいいのかもわからず、流されるまま目の前の猫にじゃれつかれていた。
「では、私はお先に」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!わ、わたしももう帰るとこなんだから!」
そんなりせの混乱など気にも留めず、制服の女子がすっくと立ち上がったのにつられるようにりせも慌てて立ち上がると、そのはずみで胸元に引っ掛けていたサングラスがぱちん、と外れ向かいの女子の足元に転がってしまった。
あ!と思ったのも束の間、その女子は淀みない動きで数歩進んでそのサングラスを拾い上げ、軽く埃を払いながらりせのもとに近寄ってくる。
淡々とした彼女の動きに釘付けになっていると、はい、と腕を伸ばしてそのサングラスを渡される距離にまで二人は近づいていた。
りせの背後にある道端の街灯が目の前の彼女の姿をぼんやりと照らし、ようやく見えた相手の容姿に、りせはサングラスを受け取ることも忘れて思わず呟いた。
「・・・・きれい」
「あなたのほうが、きれいですよ」
「そ、そんなことない!あなた、ほんとうにきれいだもん・・・」
「お世辞はそれくらいにしておいて」
言われたら誰しも少しは動揺しそうな褒め言葉をあっさりとスルーして、女子はりせの右手を自分の左手で引き寄せてサングラスをポン、と置いた。そのままりせの横を通り、りせの家とは逆の方向へ道を歩き出そうとしていたところで、ようやくりせが声をかけた。
「あ、ありがとう」
「いいえ」
「ねえ、いつもああいうことしてるの?」
「ああいうこと?」
「ねこの、えさ・・・」
「あぁ、そうですね、わりと毎晩います」
「わたし、邪魔した・・・?」
「いいえ、何故ですか?」
「いきなりだったし、その・・・」
「それなら、私のほうこそ驚かせたでしょう。すみません」
「う、ううん。驚きはしたけど、ねこ、好きだし・・・」
「私も好きです」
「ふっ・・・ふふっ、あなた、話し方、丁寧すぎてヘン。今のも優等生って言うか、なんか、ドラマの執事みたい」
「そうですか?」
「八高生でしょ、その制服。何年生?」
「1年です」
「私と一緒だ。じゃあタメ口でいいよ」
「タメ口、とはなんですか?」
「え、わかんないの!?えっと、うーん他になんていうのかな・・・わたしみたいにこう」
「こう?」
「軽くっていうか、テキトーていうか、うーん」
「『タメ口ってなに?』っていう感じ?」
「そ、そう!そんな感じ!」
「わかった、今度からそうする」
「ま、まだちょっと堅いけど、まあいいわ」
「じゃあ、またね」
「え?」
「もう来ない?」
「そっ、そう・・・だね。ま・・・またね」
「うん、また」
わずかに微笑んだ彼女の笑顔と申し訳程度にふられた右手のバイバイにりせがぎこちなく応えると、彼女はその場を足早に去っていった。
「・・・あ、やだ。わたし、名前・・・聞いてなかった」
6月20日。久慈川りせと苗字名前が不思議な出会いをした。