「湯船にお湯をはってもいいでしょうか」
「ん?それはつまり、名前は俺と一緒に風呂に入りたいってこと?」
「違います!断じて違います!!」
北風吹き荒ぶ2月。今季は例年にも増して寒波が強いとテレビが告げる。
この年季の入った事務所にも備え付けの暖炉はあるが、今日のように気温が低くしかも風が強い日はひとたび火を落とせばあっという間に室温が下がり、家にいながらコートをひっかけるというなんとも寒々しい空間になる。
今だって火はがんがんに焚いているが、この1階の事務所全体を暖めるには幾分、パワーが足りていない。
もともと設備についてはなんのこだわりもたず事務所を探していた自分にとって、この状況はまぁ仕方のないことなのだが、痩せ体型の同居人にはやはり厳しかったようだ。
夕飯を食べ終えたテーブルを前に、神妙な面持ちで問いかけられた話は、思いのほか単純なことだった。
「シャワーだけだと寒いんです。我侭とはわかっていますけど、どうか・・・!」
「いやいや、別に我侭なんて思っちゃいないぜ?浸かりたきゃ好きなだけ浸かれよ」
「でも・・・・」
この、どこまでも遠慮がちな日本人女性がその同居人、苗字
名前である。
訳あってこの事務所に同居している名前とは、もうここ半年ほど生活を共にしているが、俺相手でも未だに「です・ます」と丁寧語を使うし、今みたいに何かしら遠慮していることが多い。
日本人女性が奥ゆかしいと言うのは聞いたことがあるが、名前ほど自己主張が少ないというのもいろいろ溜め込みすぎてよくないのではないかとまま思う。
そんな彼女が、たかが風呂のこととはいえこういう風に希望を出してきたのだ。
断る理由なんてあるはずもない。
「風呂くらいで遠慮すんなって。毎日だっていいんだぜ?」
「えっ、毎日なんてそんな、悪いです」
「風呂くらい、自由にはいれって」
「でも・・・」
「っだー!ここに来たときから気ぃ遣うなって言ってるだろ!」
「水道代が!!」
「あ?」
「光熱費が・・・ぎりぎりなんです・・・」
「・・・・・・・Uh, huh・・・・・・」
寒波はどうやら外だけではなかったらしい。
家計を預かる名前に言わせると、冬に入ってからと言うもの、連日の暖房代が大分かさんでいたという。
かといって、そこらへんは大雑把な俺と違い名前がしっかりしているので、テレビや電気は付けっぱなしにしたりしないし、何がほしいとねだって出費を増やすようなことも今まで全くと言っていいほどない。
俺の飲み代にしたって、彼女がうちに転がり込んできてからここ最近、大分少なくなっている。
もともと贅沢はしてない暮らしぶりなのだ。
つまりはどういうことかというと。
「あー、その・・・そろそろ仕事、してきます」
「そ、そんなことを言いたかったわけじゃないんです。あの、ほんとにごめんなさい・・・」
こ、これはですね、私が日本人故に夜は熱いお風呂にザブンと浸かるのがどうしても習慣になっていまして、ちゃんと浸かるとお風呂上りも湯冷めしにくかったりで、つまりは体にいいんですよ!と必死にフォローしてくる名前の優しさが身に染みる。
適当に相槌を打ちつつバスルームに向かうと、向こうも慌てて俺の後を追いかけてきた。
背後に彼女の気配を感じつつ、きれいに折りたたまれたバスタオルを一枚手にとると、
「ダンテ?怒ってます・・・?」
まったくそんなつもりがなかった俺は、その一言ではじかれたように顔を向けると
それはそれは困った顔をして俯いている名前がいた。
これが日本人というものなのか。いや違う。
なんだろう。この、小さな罪悪感と共に湧き上がってくる愛おしさは。
これが名前にしか出せない、小動物のようなオーラなのである。
思わず抱きしめたくなるが、そこは恋人同士でもないという今の二人の関係を鑑み、一歩、理性で押さえ込む。
衝動のかわりに、持っていたバスタオルを広げて、名前の頭にふわりとかぶせると、今度は向こうが驚いたようにこちらの顔を見上げてくる。
「お前、ほんと気にしすぎ。怒ってないよ」
「ほ、本当ですか?」
「ぜーんぜん」
そう言いつつ、名前の頭から肩までをすっぽり覆っていたバスタオルごしに、彼女の頬をわしゃわしゃと揉みあげる。
「だ、ダンテ、犬じゃないんだから・・・っ」
「そうだなぁ、名前はどっちかっていうと猫っぽいよなぁ」
「そういうことじゃ、なくてっ、もう…」
ようやく笑った彼女の顔を確認して、バスタオルから手を離してやる。
「もっと気楽にしろって。お前が元気ならそれが一番なんだからさ」
そう言って彼女の頭をぽんぽんとたたく。
ありがとうございます、とはにかむ彼女の姿には、見たこともないヤマトナデシコとやらの姿を連想させられて、思わずこちらの頬も緩む。
「ほら、あとは俺がやっとくから、お前はゆっくり入ってな。それとも・・・」
俺が入ってくるの、待ってる?
そう耳元で囁くと同時に、真っ赤になった名前を横目で確認する。
「~~~まっ、待ってませんから!!」
左耳を押さえ、慌てて俺との間合いを広げる。
この初心なリアクション見たさに、絶対にイエスとは頷かないであろう質問を毎度してしまうのだ。
目論見どおり事が運んだことに満足した俺は、名前にぐいぐいと背中を押されながらバスルームを退散したのだった。
一人、部屋に戻りひとしきり満足したところで、夕飯のあとの食器を洗おうと水場に立つ。
腕まくりして上機嫌で洗ってると、ふと耳に入ってくる音があり、しばし耳を澄ませてその正体がわかると、思わず笑ってしまった。
「バスルームで歌うなんて、おっさんかあいつは」
しかし、バスルームの反響を介してささやかに聞こえてくるそれは、音楽を学んでいたという彼女ならではのおっさんらしからぬ選曲で、たしか有名なオペラの曲だったと思われる。
風呂上りの彼女に曲名を聞いたら、どんな顔をするだろうか。
恥ずかしさのあまり、温まった頬をまたさらに赤らめるんだろうか。
そんな意地の悪いことを考えながら、名前の歌声に自分の鼻歌を乗せつつ、俺は皿洗いを遂行するのだった。